(ΦωΦ)正気のsaturday night(ΦωΦ)

本人にもよくわかりません

猛る女帝、炊ける米飯に憤慨

我が家では、一瞬の気の緩みが命取りとなる。
女帝の尾は常に足元にあり、踏み出す一歩の行く先を誤れば、図らずともそれを踏むことになる。
 
例えば、白米2合を炊飯に掛けた状態で、誤って出前など頼もうものなら途端に
盛大なため息&舌打ちを御見舞され、精神攻撃を展開されることうけあいである。
 
と同時に突如として家中の掃除を開始され間接的かつ無言の叱責を浴びせられることは
もはや火を見るよりも明らかと言えよう。
こうなってしまってはもう終いである。
それから暫くは僕が口を開くことは許されない。
ただひたすらに、これ以上油を注がぬよう細心の注意を払いつつ
空気(この場合の空気には物質的な意味と心理的な意味が込められている)と同化し太炎が冷めきるのを待つ他ない。
この記事を書いているまさに今も、僕の後ろでは冷めやらぬ炎がふつふつと燻っている。
時折聞こえる大きなため息は、降りかかる火の粉のようである。
避けることは困難を極める。むしろ不可能である。
 
しかしまぁこの、斯くも無残な惨状も落ち着き払えばなんとも愉快な光景であるように思えるのだから不思議なものだ。いや全く。
 
まずこの場を借りて読者諸兄にお知らせすべきことがあるのだが、我が家の女帝は基本的に怒りが頂点に達すると、普段歯牙にも掛けないようなことを始める。
今回であれば、自宅の掃除がそれに当たる。
これはなんともまぁ非常に興味深い現象で、彼女がもつ普段のお掃除サイクルから例外的に逸脱してやり場のない怒りをちりやほこりにぶつけることでさて雲散霧消とせんとしているのだ。さらに興味深いことにこの間、僕が手伝うことは許されない。
どうやらこれまでの研究によると、手伝うことはそれ即ち、只今行われている精神攻撃に対する反撃として認識されるようである。
平時であれば僕が掃除をえいさえいさと敢行することは、我が家において、ひいては女帝様にとってもプラスな行為であるはずなので感謝ととも僅かばかりのお褒めの言葉をいただけるのだがこの時ばかりは、事がそうも上手く吉に転ぶわけもなく転んだ先にはちくちくと痛そうな針山剣山がでんとして待ち構えているのだ。
 
兎も角、この現象を考察した結果、僕は以下の答えを導き出すに至った。
どうも女帝様は「掃除はまとめて一気にする」学派に所属しているらしく、「ある程度こまめにする」学派に属する僕とはそもそも基軸が異なっている。そのためこの「どのタイミングでゴミを片付けるか」問題は、しばしば我が家において争いの火種となっているが、未だに折り合いはつかないままである。
 
   //いつかこの問題も最適な終着点に着地することができるのだろうか───
 
そもそも「掃除はまとめて一気にする」学派(長いので「一気派」と呼ぶことにする)は
 
「いつかする」
 
その言葉を免罪符とし、だいたいやらない。
かの学派員が掃除を始めようと重い腰を上げる頃には、我が「ある程度こまめにする」学派(こちらは「こまめ派」とする)の学派員が既に掃除を済ませている事例がおよそ8割を占めていることがわかっている(当学派調べ)。
 
しかしながら、ここまで書いているところに出前を頼んだ弁当が届いた。
これを食べれば女帝の気も些か紛れることだろう。
何より、女帝は食べることが好きなのだから。
 
 
今回はここまで─────。